校 歌 解 説

     学校長 大原良夫
    ※大原良夫 本校第21代校長(在籍 昭和53年4月〜57年3月31日)  昭和58年には、第2回福島民報出版文化賞を受賞されました。この賞は、県民文化の向上を目指して制定されたものであり、県文学賞とともに権威あるものとして知られております。
     受賞作品は、出版されました「歌集峡影」で、先の県文学賞に続いての受賞は、在校生にも大きな刺激を与えました。
     この校歌解説は、本校野球部が昭和55年夏、第2回目の甲子園出場で初勝利をあげた年度、昭和56年2月発行、生徒会誌「ふたば」13号へ故大原校長先生が寄稿したものです。
 今夏、甲子園球場からテレビを通じて全国に流れた本校校歌に対する賞賛の反響は意外に大きいものがあった。
 私自身も、勝利に対するお祝いと同時に、「良い校歌ですね。」という言葉をしばしば耳にした。中には、作詞者土井晩翠の教へ児という未知の方などからも感想が寄せられたりした。
 考えてみれば、70歳を越える大先輩と、卒業したばかりの後輩とが声を合わせて歌えるものは校歌である。
1万名の同窓生を結ぶ絆であり、伝統そのものと言って良かろう。
昭和3年10月制定以来、本校教育理念の中心をなす一つとなってきたのである。荘重な七五調の歌詞が、現在の高校生にとって、やや難解かと思われる部分もあるので、その大意を記してみることにする。
楢葉標葉のいにしえの
名も遠きかな大八州
その東北ここにして
天の恵みは満ち足れり
双葉の地が、楢葉・標葉の二郡に分かれ、この日本を大八州と呼んだのは、思えば遠い昔のことではある。その東北に当るこの地、気候温和、山脈(やまなみ)を背に海に臨み、まことに自然に恵まれた風土というべきであろう。(この地に学ぶ者は、この恩沢に思いをいたし、専心努力をすべきものと思う)
踏むべき土のあるところ
寄りて雲居もよじうべし
一葉二葉のちさきより
昼なお暗き森ならん
足掛りとする一塊の土があれば、それを頼りとして、自らの努力で、大空へよじ上ることもできる。(この学校で学んだものを土台とすれば、自らの努力によっては、いかなる雄飛も可能なことである。)
昼なお暗いまでにうっ蒼と茂る大森林も、思えば一葉、二葉の若木の成長の結果である。(いかに卓越した人も、考えれば、それは若い時からの研鎭(けんさん)の賜である。)
臆々紅顔の若き子ら
名もまたうれし双葉なる
我の学び舎その窓に
よりて尊き時惜しめ
この学校に集う溌剌たる若者達よ。諸君の学ぶ学校の名として「双葉」とは、まさにそれにふさわしい校名ではないか。
その学び舎で、君達が分け入る学問の道はいかにも奥深い。寸刻を惜しんで自らの学業にいそしまれよ。
春と秋との幾めぐり
やがてわが学業終る時
さらに新たに道あらん 歩み固かれ目は遠く
春秋が去来し、幾年かの後、本校における学業を終える時期を迎えることになろう。
そして、また更に進むべき新しい道が諸君の前に広がることになる。それぞれの道を高遠な理想を求めながらも、一歩一歩堅実な歩みを続けられよ。
 なお、作詞・作曲のお二人についての概要を述べる。
     作詞者 土井晩翠 (1871〜1952)仙台に生まれる。 旧制二高・東大英文科卒。旧制二高、東北大教授。芸術院会員。
    「天地有情」「暁鐘」等の詩集による 漢詩調の詩は、島崎藤村と並んで、初期の日本近代詩史を形成した。「藤村・晩翠時代」と称せられ ている。
     作品の一つ「荒城の月」は今なお愛唱されている。

     作曲者 信時 潔 (1887〜1965)京都に生まれる。東京音楽大(現東京芸大)卒。その後ドイツに留学。帰国後母校の教授となる。芸術院会員。
     日本における西洋音楽の作曲活動の先駆的存在とされている。数多くの作品があり、その一つ「海行かば」は第二次大戦中、広く国民に浸透していた。

 それぞれ当時の最高の方々に、依頼申しあげたもので、そういう点でも建学当初の関係者の意気込みが察せられるのである。初め、晩翠は、あまり特色のない当地方の風景、風土を読み込む困難さから作詞を断わられたという。
 他校の校歌が、ほとんど周囲の山や川から歌い起すのに比べて、僅か「楢葉・標葉」の古都名が出てくるだけという特色を持っている。
 また、旧制中学から高校への学制改革の際、多くの学校の校歌が歌詞の変更を余儀なくされた際も、本校は「中学」を「学び舎」と改めるだけで済んだということは、それだけ一般的な普遍性を持っていたということであろう。

 歌というものも、詩である以上その意味を味わいながら歌い、歌いながら味わうということが必要であろう。
 もしその一節から一人一人、何か人生の指針を見出せば、校歌の使命またそれに過ぐるものはないと考えられるのである。